1998年11日16日(月)-11月21日(土)に東京・御茶ノ水の画廊文化学院で
辻恵子の初個展「ちいさなかけら - TINY PIECES」を開催しました。
この初個展は、ドミノが倒れるように始まった。文化学院の文学科を卒業後、
美術学校を夏?に卒業した年、文化祭で再訪した母校。在学中に通った画廊を
いつか使ってみたいなあ、と、事務のNさんにポロリと言ったら即座に担当者に
通され、会期まで決まってしまった。その後、じつはこの画廊は、教室にされる
計画があり、その工事が早まったので、展覧会をするなら11月(1ヶ月後)迄、
と電話があった。作品は山ほど作ってあったけれど、右も左も分からないまま、
父に案内状をデザインしてもらったり色々な人に協力して頂いて実現した会。
初日に頂いた花が、画廊のドアを開けるとむせ返るように甘い香りを放ってた。
シャッターを開けたら、見てもいい?と、すっと入ってきたのが、近くの学校で
教鞭をとっていた奥山玲子さん(故人)だった。ずっと応援してくださった。
会期中は柄にもなく「この画廊を教室にしないで」という署名運動もした。
芳名帳の横に、帳面を置いて。一週間でたくさんの人に会って、気が張って
いたのが解けたのは、搬出後に乗ったタクシーの中。母の肩に頭をあずけて、
《あーーー。こんな、しんどいこと、にどと、しばらく、したくない!》
と思ったっけ。オレンジ・ジュースを搾ったあとの搾りかすの絵が、具体的に
頭に浮かんだ。 搾ったあとは、再び実るまで 待たねば ならないのよ と
思いつつ。来場くださった方たちが、私に言った「初個展おめでとう!」に
続く「次の個展も楽しみにしているわ!」という言葉は、「出し切った」後の
私に、残酷に響いた。しかし、それは嬉しい事でもあった。私の絵を見たいと
いってくれている人がいるのだから。作り続けねば、と思った。
2013/7/27 記
2019年の朝ドラ「なつぞら」のヒロインのモデルになった
日本のアニメーションの創成期に活躍した方。当時はその
こともよく知らなかったのですが、画廊のシャッターを
開けるガラガラ!という音で、当時、近くの学校(東京
デザイナー学院)で教鞭を執ってらした奥山さんが驚いた
ようにして立ち止って、目が合い、「前に通った時にも
気になっていたんだけど時間がなかったの、開けたばかり
なのにごめんなさい、ちょっと見せてもらってもいい?」
というようなことを仰って、どうぞどうぞと私。風のよう
に入って来て、ふーっと見て、この絵をください、と決め
てくださいました(後で旦那様・ハイジのキャラクター
デザインの小田部羊一さん)にお聞きしたら、そうそう、
そうやってすぐ決めてたね!と)。その後も、個展の時に
いらしてくださったりと、応援してくださっていた方。
一緒にDOMAの個展にいらしてくださったことがある奥山
さんのお子さんから、私の絵の事を「いいのよー」と
言ってくれた事、2019年になってから聞いて嬉しかった
り。彼女の没後に、偶然小田部さんと出会えて交流が
始まったり。そんな出会いが、この初個展の時にあり、
もしシャッターを開けるタイミングが2秒でも早かったり
遅かったりすれば、奥山さんとも出会えなかったと思うと
恐ろしくもあり、そんな奇跡のような運命のような出会い
ができるとは、お互いに引きが強いんだ、とも思います。
2019/09/25・追記
ちなみに、こんな入り口です(追記しまくってる
記事なので、下の短文は昨年のメモです)
↓
*
20周年の個展「20」にて:高校の頃からの友人が、初個展
会場での私の写真を持って来てくれました。わー、やっぱり
素敵な建物だな!パリみたい、パリ、行ったことないけど!
と、笑いました。 *2018年追記
2013/12/6 記:15年前に画廊文化学院で開催した初個展の案内状の色校正紙が
出てきました。切り文字が少し拙い。デザインは「こんなかんじに」と父に
伝えてお願いしました。官製はがきより横幅が狭いサイズです。
2018年2月・記:当時はまだ切ったあとに彩色をしたり、切った後の紙を
一緒の画面に配置せずに捨てていたり(一緒に並べたほうが、より
あなたの作品らしい、と教えてくれたのは、初個展にいらした、
見知らぬお方、あるいは母校の掃除のご婦人だったか?)。
*
伯父が購入してくれた、初個展に出品した作品。
これも、切った後に着色するのをためらわずに
やっていますね。
*
父の友人?同僚?の方からのお手紙。素朴と洗練。
心に刻みたくなりました。