2016/05/14

「A Heaven in A Wild Flower」増刷、日々のルーチン、案内状書き






重版出来!」←いってみたかった。笑。あのドラマ、とてもいい。
昨年秋、自費出版した画集「A Heaven in A Wild Flower」の
二版目が届きました。第40回目の個展を記念した、12ページの
小冊子。初版は100部だったので、すぐなくなってしまって、 
そのままでもいいかなあ、とも思ったのですが、いやいや、  
せっかくだから、奈良にも持って行きたい!と増刷しました。 
この展覧会の搬入が終わったとき、着信に気づいたのが「とと 
姉ちゃん」のお仕事の始まりだったり、また、会場の画廊主の 
恵子さんが亡くなった直後で展覧会自体、開催するのかしないの
か、紆余曲折あった事(ご子息がぜひ、やりましょう!と後押し
してくださったお陰で開催できたこと)など、思い出します。 




宇多田さん仕事が一段落しても、やることが気が遠くなるほど
あるんだけど、お掃除とか新聞を読むとか、日常のルーチンは
大事にしていかないとリズムが乱れちゃう気がして、溜まって
しまってた新聞を読む。「折々のことば」には、「人には、 
自分がだれかから見られているということを意識することに 
よってはじめて、自分の講堂をなしうるというところがある」
という、浜田寿美男・山口俊郎の共著「子供の生活世界の  
はじまり」という本からの言葉が紹介されていた。近頃、  
「師匠」について話をすることが多く、たとえば昨日も、公開 
された宇多田ヒカルさんのビデオをみて、映像監督の小川さん
の師匠がこういう感想をくださったのだけど、師匠にさ、  
観て頂くのは緊張するよね、とか。だれか、こんなことを  
しているところを「あのひと」に見られたらとても恥ずかしく
って出来ない、とか、そういう「こわいひと」は、居たほうが
いい。私の場合、師匠は文化学院で卒論をみて頂いた、英詩の
先生・A女史だと思っているのだけれど、頭の片隅に彼女の、
愛のある厳しさを思い浮かべると、曲がったことは出来ない。
例えば信心深い/宗教が根付いた国なんかだと、「誰かから 
見られている」の大ボス?が神様なのだ。宗教話がなんとなく
タブーな日本とは違って。そして、肉体としての人の目がない
からといって、神様がみている、と思えば…という話。   





ここ数日のことをブログに書き、次回個展の案内状を
書き始める。「とと姉ちゃん」のオープニングを見て
くださった方々から、お手紙もいただいていて、毎日
みていますよ、とか、しばらく見て気づいた、とか。
用事で家にいらしたご近所さんも、観てくれたみたい
で、それこそ「誰かから見られている」。いい意味で
背筋が伸びる思いです。             







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