7/28:初台のオペラシティアートギャラリーへ。
荒木経惟さんの展覧会、「写狂老人A」をみに
行きました。入ってすぐの展示室で、若くは
ない女性たちの裸体の、大きな写真がずらり。
乳房や腹が垂れたり、シワがあったりの裸体。
どうよ!わはは!と、深刻ではなく何か:美醜
(びしゅう、美しいことと醜いこと)とは何?
とか、老若のこと、あれこれ、ぐわっと掴んで
引き込まれるような、問われるような。前に
アートのわかりやすさとわかりにくさについて
雑記したけれど、そうそう、こういうことよ、
とにかく表現者の「ワールド」に巻き込む力と
いうか、それがしっかりしていれば極論、何も
タブーじゃない、何をやってもらってもいい。
アラーキー、お元気でキワキワ(最前線であり
危なっかしさ正道とを併せ持った存在)だ。
毎回ではないかもしれないけれど、
この会場では企画展の撮影が可能な
ことが多い。撮影できるとなると、
きちんと作品と向き合って、2度と
みらんないかもしれない!と手帳に
スケッチしたりするのが減るのが
残念なような気もするけど、手では
写しきれないものを捉えるのが写真
…でもある。(私の写真は芸術作品
ではなく、単なる記録だが)。
アラーキー自身も、日記のように写真を撮っていて、
その一連の流れの中には第一展示室で見た裸の女性の
姿もあり、新聞の訃報欄や、私の好きな画家の一人・
ルーカス・クラナッハが描いた残酷な絵(生首を持つ、
ユーディト像)や、精力剤の新聞広告(女性がうっとり
した顔で「すごい…」と文字が入っているもの:3つも
あった)、死・性・食・生、といったものがバラバラと
混じり合って展示されていて、その混沌とした感じは
アラーキー自身の日常というだけでなく、生きる人々
すべての日常のようだな、とも思う。死への恐れも、
美味しいご飯も、生活の雑事も、どれか一つだけを
感じる一日なんてない。少し前のドラマ「カルテット」
で、泣きながらご飯を食べたことがある人は生きて
いけます、という印象的なセリフみたいに、苦しくても
腹は減る。生きてても、いつかは死んじゃう。
このシリーズが見応えあり。私も新聞や雑誌の
切り抜き・スクラップが好きで、どこが特に
面白いかというと、全く関係ない写真や絵、
文字)をスクラップブックに貼る時、隣同士、
何か通じ合うも の、シンクロするようなポーズ
だったりする感覚。トレーニングのつもりで
やってるわけではない(単に楽しいからしてる
だけだけど)レイアウ トというか編集脳が
鍛えられるような気がします。
(上の写真は荒木さんの撮影したものではなくて
私のスクラップ帳です)3年前に書いたブログより
余談ですが、アラーキー(と私)といえば、
私家版のHASAMI BOOKSを始める時に、その
予告として切り文字で全文を作るべし、と
アイデアを投げてくれた佐藤温志さん、その
着想はアラーキーが写真家宣言を自筆で
書いたのがある、からだそうでした。
*
この展覧会の題字しかり、たくさんの写真集などでもアラーキーの文字は「彼の文字」で
パッと見て、わかる。文字に宿る個性や、「その人らしさ」が出るのは何故だろう?と、
昨今なぜか文字の仕事が多いので考えたりもする。ちなみに、「写狂老人A」の場合、
「A」の横棒が右から左に書かれているんだな!と気づきました。
↓
いつかどこかで遭遇してみたい人だ、と
ポスターに写る後ろ姿を見て感じました。
だいぶ歳は違うけど、同時代人でよかった
と思える芸術家の一人です。
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