2018/11/16

天野健太郎さんの訃報〜偲ぶ会






11月13日、夜にツイッターのダイレクトメッセージで、天野健太郎さんの死去を知り
ました。某カフェの常連仲間で、近年、私はそこには行かなくなっているので、もう
長いことお会いしてなかったけど、中華圏で私(たち)の作品が盗用された時に相談
に乗ってもらったりした(愚痴を聞いてもらってたと言ったほうがいいかも)。  

実は私自身、死ぬかと思うようなことがありまして、その頃を知る友達だったので、
もう何年も会わなくなってからも「おかげさまでアレから何年たちました、なんとか
(?)生きております」というような、生存報告的なメッセージを送る事がありました。



早く、その(危ない目に遭った)日を忘れられるといいね、だったか、(何月何日
だ!と、怖い記憶をフラッシュバックする事もなく平和に過ごせる)普通の日に 
なるといい、だったか、そういう、「ああ、文筆業の人だなあ」と思うような、 
甘ったるくはなく、短いながらも印象に残る返信をくれた覚えがある。     

今年は、そろそろ、「その日」が「普通の日」になってきたかもー、と思って、  
そろそろ普通の日になってきましたわ、とでも連絡しようかなあ、なんて思っていた
頃の訃報。その、私の「忘れられたらいい」日の近くで逝くかー!と、つっこみたく
なる。話がそれるけれど、私のことを可愛がってくれていた幼馴染のお父さんは、 
彼の妻と私の誕生日の間の日が命日で、母の親友で、私のおばは、母の誕生日と  
一日違いで他界した。忘れないでね、な感じの日に。あ、そういうことね、と理解。


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最初に天野さんの訃報が流れてきたのだけど本当か、とダイレクトメールをくれたのは

「Pen+」の編集長だった。本誌(別冊じゃない方)の紙の特集で私の記事を書いて  
くれたことがある方で、素晴らしいのだ、と(天野さんいなかったけど)、別の  
常連仲間に話をしていたら、会ってみたい!紹介して、という話に。       

お忙しいなか時間をとってもらうし、どうせなら(いい仕事をしている)天野さんも

紹介しておきたいなあ、と誘った。帰り際、まあ悪気はないんだろうけども「お節介
なんとか」みたいだね、と言われて、ババア?え、ババア?と内心カチンときたん 
ですけど、ちゃんとあれこれやって形にしたのは「さすが、やるなあ」でした。  

活字での繊細さと裏腹に?口語では割と歯に衣着せぬ言葉使いをするものだから、 
圧倒されたり、ムッとすることもあったけど、面白い人だった。ああ、そうだ、  
私の絵本の台湾版出た時、音読してもらったり、お土産でレンブという果実を  
 いただいたなあ、とか色々、思い出す。                     


まとめなくてもいいよ〜と言われそうだけど、追悼の気持ちや、こんなすごい仕事を
してたんだよ、と伝えられるようなツイートを「まとめ」てみたら、割とふくよかと
いうか、がっちりした体型で中肉中背だった天野さんしか記憶にないのに、亡くなる
直前に撮られたという写真ではシュッと…というか、これ天野さんじゃないよね?と
思うほどに痩せてしまっていて驚いた。見つかった時には、かなり進行してしまって
いるらしい病気・すい臓がんで12日にお亡くなりになったとのこと。       

                     (後日、「まとめ」は消しました) 


今日…というか日付変わって11月15日は、朝日新聞の訃報欄によると、地元・愛知で
葬儀が営まれていたようだった。東京にいて行かれなかったので、西向いて祈る。 


台湾海峡一九四九 猫楽園
2012年初版  2013年初版→

・・の、
↙︎  

初めて訳した本や、猫夫人のあたりくらいまでしか訳書をきっちり追いかけて
いなかったので(ごめん)、死を惜しむ皆さんのツイートを読んでいて、驚く
こともあった。私が「野性時代」の挿絵をやっている頃だったと思うから8年
くらい前に、まだ一冊も翻訳家としての業績はないのだけれど、翻訳したい 
台湾の本のリストがあって、その企画書を読んでもらえるような文芸編集者は
いないだろうか、みたいな話をしていた頃、そのリストに入っていた本(私の
母が洋裁が得意なので、覚えていたもの)が、ご無沙汰していた間に出版され
ていたことを知って、「わあ!よかったねえ!」となった。これは買わねば:


台湾少女、洋裁に出会う――母とミシンの60年
               

まだまだこれから、な40代での別れ。何より、多くの人がツイートしてらしたように、
一個人の死というよりも、「橋渡しする人」がいなくなってしまうことの損失たるや。
ただ上手く訳しました、じゃなくて自分でちゃんとアンテナを張って、これは面白い
な、とピンときたら、読んで、読み込んで(天野さんの持っている本は、なんじゃ 
こりゃ、というくらい付箋だらけだった)、自然な日本語で伝えられるのはなかなか
すごいことだ。*私は翻訳などできないけど、学生時代に英米文学を学んでいて、 
外国語を学ぶということは母国語も同時に再考することだ!と気づいて、つまり、 
外国語と母国語、両方出来てこその良い翻訳なんだろうなと思うとこあるのですが。

カミサマさあ、この人がおじいちゃんになるまで生きて金原先生(恩師の一人、英語〜
日本語の訳書、沢山:そして天野さんの文章にも通じる、蕎麦のようにツルツル読める
文才の持ち主)みたいに山ほど本出して、それを読んだ人が台湾に興味持ったりしたの
かもしれないんだよー?わかってるー?と説教したくなったりしました。新刊が出た 
ばかりで、それがブクログ大賞の海外部門賞とったらしいですよ。読まねば。    

*追記:金原先生のブログで天野さんの訃報についての記事:
そのいちそのに(このブログへのリンク)

急な知らせに、驚いてしばらく涙も出なかったのだけど、言語化しているうちに  
やっと泣けて、まとめなんぞして、それでいいか、と思ったけど、お節介なんとか 
なので、ブログも書いておこう、と。笑。多分お葬式が終わった頃に、東京で(違う
人の)お見舞いに行き、ついでに近くの神社へ。普段は入院患者さんが少しでもよく
なりますよーに!と、定型文のように祈ることが決まっているのだけど、さすがに 
今回は違う。えーと、なんと祈るべき?と一瞬迷いつつ、つらつらっと友がそちらに
行きました、会わせてくれてありがとうございました。みたいに頭の中で唱えてて、
はっとしました。形のないものから有形(赤ん坊)になって生まれ出て、ばらく 
世の中にいて、やがては死に行き、物体としては無?に戻る感というか。友人知人、
家族。一秒も違わず同時に皆が死ぬなんてことはないから、見送ったり、見送られ 
たりが人生なのかも、とか。そんなことも考える日でした。           




2019年1月16日追記:天野さんの写真、あったかなあ、と探してみました。
古いデジカメのSDカードをざっとみて、2010年前後にチラホラ:


2010年、CORBでの個展の時の一コマ。
「天野健太郎さんを偲ぶ会」でも言及して
いる方がいましたが、テーブルの上に
置いてある本には、細い付箋がびっちり
貼られていて、わー。すごい!見せて!
と、それも撮らせてもらいました。  



これは何の本だったのか忘れちゃったけど
本も、ここまで読み込まれたら幸せだろう
と思いました。*まあ、備忘録のために 
貼っていたのか、どういう基準で貼って 
いたのかは分かりませんが…。     





初めて、翻訳家としてドーンと名前が出た
「台湾海峡一九四九」を献本いただいた時の
サイン。6/22発売の本を6/15に下さってた
のか!ありがたい。(→その日のブログ

台湾海峡一九四九





台湾土産でいただいた、レンブという
果実の写真も出てきました。(特に
天野さんのことは書いてませんが、
その日のブログはこちら)。   



追・追記


2018年1月13日、台湾文化センターで天野健太郎さんを
偲ぶ会が開催されました。手がけた書籍が並べられ、 


ブクログ大賞の海外小説部門大賞の盾。天野
さんが訳した「13・67」に対するもの。この
偲ぶ会の後に著者で香港在住の陳浩基さん
送られるとのこと。ここに記された日付が、
天野さんの命日。→ 出版社のツイート参照。




あ、「Pen+」もある。


私は右下の「飛ぶ教室」を買いました。花屋のご子息だったとは知らなかった。
掲載されているエッセイは、家のお花やさんの手伝いをしていた時の話と翻訳の
仕事についてのこと。翻訳すべき本を選び、大切に翻訳しって読者に届けるのと
「花を選び、大事に、手際よく包んで渡す。」ことの共通点。自分のガサツさを
露呈するようでお恥ずかしいけど、喫茶の常連なかまだった私達、壁際の席に 
天野さんが座っていて、上着を私がガサッと適当に壁際に置かせてもらったら、
さっと「手際よく」畳んでくれたことがあって、コレか!(こういうことが、 
習慣づいてたのか、幼い頃から…)とも腑に落ちる。※一見、わりとガハハ系の
見た目なのでギャップに驚いたのですが。                 

「飛ぶ教室」の同じ号に書評を書いている、英語〜日本語の翻訳家・金原瑞人さん
(このブログの上部を参照、文化学院時代の恩師の一人)とも、「偲ぶ会」で 
数年ぶりに会うことができました。最近はモームの小説を翻訳しているそう。
ミーハーなもので、サインをいただきました。先生の翻訳も天野さんの翻訳も
蕎麦をつるつると食べるように文字が、ダーっと入ってくる感じがして、何と
なく似たものを感じる(頭の回転の速さとか、手書き文字も似てるかも)。 
天野さんと金原先生、二人が翻訳家のつながりで知り合いだったことは、天野
さんの死後に初めて知ったので、改めて金原先生に天野さんの翻訳、どう?と
聞いてみたりする。いい、と先生は言って、付け加えるようにして、彼は台湾
のメッセンジャーボーイだよね、と仰っていました。           





偲ぶ会は、野嶋剛さんの司会(野嶋さんのブログでの記事はこちら)で
進められ、会場の台湾文化センター長(定年で台湾に帰国する直前)、
写真の、大妻女子大学の台湾文学研究者の赤松美和子さんが、分かり 
やすく、天野健太郎とはどのような仕事をした人なのか、を解説して 
くださった。台湾の文学は今までマイナーで、グラフのように、出版 
された数も多くはない。232冊。そのうち、重版になった(要するに 
「売れた」というか)本は表紙の画像が出ている5冊で、そのうちの2冊が
天野健太郎・訳なのだと。す、すごーい。ちなみに、私達(茶飲み仲間
で、天野さんと共通の友人だったS子さんと私)は偶然、故人のご両親の
後ろ姿を見ながら、この話を聞いていました。           







右が遺影というか、会場に飾られていた写真。私の記憶の中(結構前)の天野さんは
もっとぷくぷくしてたなあ、と古い写真を後日、探して比べてしまいました。遺影、
シュッとしてる。死の直前の写真は、痛々しいくらいに痩せていたり、ご無沙汰して
いた数年間の写真は逆に記憶の中の天野さんより大きくなってたり、会場に集まる 
人たち(定員80人だったけれど、当日受付もされて、150人くらいお集まりだった
ようです)、それぞれの方々が語られる思い出話に「ああ、そうだった」「そう 
そう、そういう感じだった」と、不思議に、一人の亡き人を通じて共感し合う。 

付箋だらけにして自分の翻訳書を読んでくれた嬉しさを語る翻訳家仲間の方、孤独な
作業の翻訳という仕事(絵描きもそうです!と一人、聞きつつ思う:笑)、お互いの
言語も違うけど、例えば縁日で、自分がイカ焼きの店を出していて、隣でタコ焼きの
店を天野さんが出していて、並んで・同じようにして頑張っている仲間がいるという
事実だけで貴重な存在であった、という話、さすが文筆家だなあ、うまい例えだな、
と思う。韓国〜日本語の翻訳家の斎藤真理子さんの挨拶だったはず。良い仕事をする
人・良い翻訳の例えとして、すごく上手くタコ焼きを焼く天野さん(in脳内)。  

終盤に、評論家の川本三郎さんが、彼の言葉選びは上品であった、というような事を
仰っていたのも印象的だった。それは、俳句を嗜んでいたからであろう、という話。
(俳句好きなのは知ってましたが)。目新しい流行り言葉を入れたりせず、品のある
言葉えらび、という事に大きく頷き、私もそうありたい(絵において)と共感する。
奇抜さを抜きにした、作品に対する真摯さというか。そして、そういうものは、  
普遍性を持ち、流行り廃りに関係なく、後世にまで残るもの。俳句の名作と同じく。

どなたかが(川本さんか?)、そういう風に日本語が美しい、すごく良かった、と 
本人に伝えると、「あ、そうっすか」「よかったっす」みたいに軽く受け流されたと
笑っていた、という話には皆、笑っていた、台湾人のネイティブかと勘違いされる 
ほどの語学力・自然さの理由を問われた天野さんが、現地の友人と酒を酌み交わして
いたら自然と身についた、なんて言っていたけれど、それは嘘で(照れ隠し?だった
か)、たゆまぬ努力の賜物である、ということも。「だろうなあ」。       

最後にご挨拶された、天野さんのお父上の話には泣きそうになる。男女問わず、周り
からグスグスと声が聞こえる。何が、と詳しく書くのはやめておきますが。    




登壇者の写真は許可を取っていないので、最初に
ご紹介した赤松美和子さんのお話のまとめの写真
を。いやはや、すごい人だったよ。      




帰り道、天野さんとの共通の友人Sさんとも数年ぶりに
会えたのでお茶でもしよう、と店に入る。葬式ではない
「偲ぶ会」だけれど、二人共、黒い服を着て、なんとなく
"死" のムードの中にいたせいか、赤、流れる血の色?生き
生きした色を求めていたのか、イチゴタルトにしよう、
と決めて、コーヒーで献杯しました。        


(1/20・追・追記)



何度目かの追記

平成時代の終盤、2019年4月29日5時半頃に目が覚めた。
亡くなった友人が夢に出てきて、はっ!って感じで。
なかなかの長篇で、ちゃんと内容も覚えている。

共通の友人のPen+の編集長や、なぜかオランダ人の友人・ハーテイーさんも出てきて
(英語で「あんま話せなかったね(ハーティーと)」とか、飛行機の中で話してた。

天野さんと別れの挨拶みたいなのをしたあとに我々(ハーティーたち)は飛行機へ。
オランダの航空会社・KLMかな、青い飛行機に乗っていると、墜落とかではないんだけど、
あ、間違えちゃったー(てへ)みたいに街中に緊急着陸、こちらも窓の外の街の
人々に手を振り、街の人たちも我々に手を振っていた。そこで目が覚めた。

天野さんの訃報を聞いた日に撮った飛行機の写真を、このブログ記事に
載せていたのも偶然なのだかなんなのだか、天に昇って、上の・しんだ人たちの
方に戻ってく故人と、夢の世界・眠りの世界から現実・生きてる世界に
戻っていく我々、という図を飛行機が暗喩していたようにも思う。

私の記憶の中ではポッチャリだった天野さん、死ぬ間際の痩せた風貌
(は、写真でみただけ)だったのも何だか、ほんとに別れの挨拶に
来てくれたのかな、と思わせる要素でした。
さようならの挨拶回りして、律義じゃん、
天野さん〜。と思う。






















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