12/7:東京近代美術館での熊谷守一展へ。撮影禁止の展覧会の場合、
これはもう二度と見られない かもしれない!と思って、さりとて凄く
まじめに描くのでもなく、スケッチするのだけど、会場を出てから、
その絵の絵葉書を売店に見つけると、嬉しい反面、なぁんだ〜、ある
なら教えておくれ、と思うこともある。図録は滅多にかわないので。
この絵は絵葉書がなかったもの。素描で大体は
思い出せたり、自分がどこをどう面白いと感じ
たか、など分かることがあるんだけど、はっ、
そうか、これはモノクロなんだな。色は言葉で
書き留めておくしかない、という。美術展で、
絵の具を広げて模写できる国があるというけど
「うち」はそうじゃない。
以前、東京・豊島区にある熊谷守一美術館で彼の原画を
見たことがあったけれど、ここまで体系的な展覧会は
初めてでした。青木繁と同級生だったという東京藝大の
時代に、親を亡くしたり、踏切に飛び込み自殺をする
(見知らぬ)女性を見かけてしまったことなどを知る。
そのことを絵にしたという、とはいえ何が・何か描いて
あるのかも分からないほど暗い・のっぺり茶色い作品
「轢死」(れきし)という作品をはじめ、若い頃の作品は
暗め。そして、割と写実的に描いてあるものが多い。
そのあとにタッチが少し明るく・絵の具をなすりつけた
跡が残っているような絵になる。5人の子供のうち、
1940年代くらいから、いわゆる「熊谷守一」と言われて
想像するような、整理された線と平坦に色を塗る感じの
絵になっていく。単純に明るい絵のようでいて、描かれ
ているのが二十代そこそこで他界した娘の骨壷を抱えた
娘(熊谷榧:かやさん)と、息子と共に焼き場からの
帰り道の図だったりする。私自身も、そういうとこが
ありますが(詳しくはご想像に)、わりと 明るいだけ!
いいことだけ!みたいなのは信用しきれないというか、
表層的に思えてしまうところがあって、例えばティム・
バートン、バスター・キートンのような、凄く暗い所も
知った上での・ドロドロした部 分や影の部分も経験した
からこその「上がってきた」ときの明るさ・まっすぐさ
深みや魅力というものがあると思うたちなのですが、
熊谷守一もそうだったのか、なるほど。と思った次第。
鉄を鍛える時だとか、こう、叩いて強くするみたいな事
を想像したり、何度かツイートをしたことがあるけれど
大貫妙子さんが歌う谷川俊太郎さんの歌詞「まっすぐ」
のことも考える。「まっすぐを生み出す力はまっすぐ
ではない」。紆余曲折したり、壁にぶつかったり、人と
ぶつかったり、悶々と考えたり、悲しんだり、そうした
ウネリを経験した後に辿り着いた真っ直ぐさの強さ(と
いうのは人を負かす強さではなく、非力でどうにもなら
ないことも受け入れるような力)は、多分、生まれた
ばかりの子供の純粋無垢な真っ直ぐさよりも強い。
鉄を鍛える時だとか、こう、叩いて強くするみたいな事
を想像したり、何度かツイートをしたことがあるけれど
大貫妙子さんが歌う谷川俊太郎さんの歌詞「まっすぐ」
のことも考える。「まっすぐを生み出す力はまっすぐ
ではない」。紆余曲折したり、壁にぶつかったり、人と
ぶつかったり、悶々と考えたり、悲しんだり、そうした
ウネリを経験した後に辿り着いた真っ直ぐさの強さ(と
いうのは人を負かす強さではなく、非力でどうにもなら
ないことも受け入れるような力)は、多分、生まれた
ばかりの子供の純粋無垢な真っ直ぐさよりも強い。
*
帰り道、公園をつっきって別の地下鉄の駅から
帰ることにする。始めて歩いた道。平日で人も
少ない。この階段を上ったら何が見えるのかな
と行ってみると、お堀が広がっていて、壮観。
こんな都心に、紅葉を楽しめる場所が
あったんだー!眼福・眼福でした。
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