そうだ、ニコライ堂いこう。…と、決めてから出かけたわけではないのですが、
電車に乗っていて、「あ、新御茶ノ水で降りよう。」(画材屋でも覗く?)
→ 「あ、ニコライ堂にいこう」と思い立ちました。建築好きなもので、
わりとフランクに、神社仏閣、教会にも入ります。*敬意とともに。
学生時代を御茶ノ水で過ごしたので、ニコライ堂は親しみのある場所ですが、
大聖堂の中に入ったのは一度だけ、改修工事の前だった。へー、あの(鹿鳴館
通称「ニコライ堂」として親しまれていますが、正式名称は東京復活大聖堂。
大聖堂に入って内側から眺める入口のアーチが美しく、ドームもステンド
グラスも素敵なのですが、見惚れてしまいました。そんな風に眺めているのが
申し訳なく思うほど、熱心に祈る人の姿もあり。ニコライ堂といえば、女性
イコン画家・山下りんのことも思い出される。よくは知らないのですが、昔、
彼女の話を題材にした?映画か何かがあり、そのスチル写真が印象に残って
います。検索してみたけれど、みつけられなかった作品。ちなみに、彼女が
描いたニコライ堂のイコンは、関東大震災で失われてしまったそうです。
*
ロシア人とおぼしき入口の受付の方が、あと10分でお祈りが始まります、と教えて
下さったので、イコンにロウソクを捧げてから、座って、頂いたパンフレットを
読む。そしてイコンが、"天国の窓"と呼ばれている、と知る。窓か。なんだか
素敵だなあ。つい先日、お世話になった方が亡くなったばかりなので、「ああ、
(故人の)恵子さんが"あちら"の世界にいくのには窓じゃ小さすぎるねえ、ドアが
必要だよねえ」なんて、ぼんやり考えていました。「天国の扉」はどんなだろう。
故人の恵子さんは絶対、"天国行き"だろう、とおもうけれど、ロダンの作品に
「地獄の門」という大きな作品があり、東京・上野公園内の国立西洋美術館でも
見られますが、これ、雨の日に(水に濡れて黒さに光沢が出たときに)目の前に
立つと、ギギギっと開きそうでこわいです。ぜひ雨の日を狙ってご鑑賞ください。
なつかしの・エニグマのPVにも登場→ こちら。(まさに、地獄の門が開きます)
ところで以前、なぜ善人は天国へ悪人は地獄へ、ということになっているのだろう?
と、ぼんやり考えたことがあります。深刻に、ではなく、いたずらに。あ、そうか、
そういうことか、と一人で納得したのは(正解かどうかは知りません、我思うに)、
天は無限で、地(地球、地面の下)は有限なのです。人間が想像できないほど広い、
どこまでもつづく、広〜〜い宇宙と、その中の一点でしかない地球の、球体の中の、
土のサイズの違いを想像すれば、天は自由で地は監獄のような印象がしたのです。
天国と極楽、呼び方は違えど:芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようなイメージで。
「地」の、監「獄」。まさに、文字がそれを表していますね。
…と、話がデカくなりました。笑。もうひとつ、なるほど!と思ったのは、ロシア
正教会が用いる十字架のこと。私、苗字が辻で、名前の中に十が入っているので
いわゆる、一番シンプルな形の十字架には親しみを感じるのですが、これは、
もう少し複雑なかたち。八つの端っこがあるので「八端十字架」(はったん
じゅうじか)と呼ばれるそうです。一番下の横棒が、十字架の足台を表していて
少し斜めになっている。上の写真は、門を入った内側から撮ったので、いわば
八端十字架の背中なのですが、本当は【向かって左側】が上がっているのが
正しい形。資料いわく:ハリストス(キリスト)が十字架にはりつけられた時
左にはりつけられた泥棒は彼をののしり、右の泥棒は爾(なんじ)の国に連れて
行ってください、と願ったので、右側の泥棒は天国に…。なので右側の足台が↑
上がっているのだ、と。右が悔い改めた泥棒で、左が悪態をついた泥棒。
お祈りは大聖堂で、ではなく、脇の小さな礼拝室にて。10名もいなかっただろうか、
最初は一挙手一投足みていたけれど、目を閉じて節のついた祈りの言葉を聴く。
日本語なので、ほぼ 内容が聞き取れる。先日ご焼香したばかりの仏教のお香とは
また別の、甘いお香の香りが、振り香炉でふりまかれる。別の文化の、祈りの時間。
何教とか飛び越え、心静かになる時間だった。ありがとうございました。アーメン。
シュアワレメヨ・シュアワレメヨ・シュアワレメヨ…。(主憐れめよ)という言葉の
リズムを脳内でリピート再生しつつ、家路につきました。
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