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2019/01/12

象すべり台〜美術館〜カテドラル〜「むにゅ」っとした枝





1/12の写真から:象すべり台、可愛い。



もう閉館後だったのですが、永青文庫美術館の外観を見物。
まるで北欧!(って行ったことないけど!私の【作品は】、
行ったことあるけど!→ スウェーデンでの個展の記事)。




開館してる時に又、来たいなあと写真に撮る。
ちなみに、この光景で一瞬、北欧に行ったよう
な気分を味わった直後、門を出た時の景色が 
下の写真:ザ・日本という雰囲気で、わああ、
脳内が(感動で)忙しかったです。     







永青文庫では今、「石からうまれた仏たち」という 
展覧会を開催中のようでした。会期中に行きたいな。


追記


1/17に再訪。この日は、違う道から:胸突坂経由で行ってみました。



坂の下には松尾芭蕉の住んでいたことがある関口芭蕉庵が。
(東京生まれ東京育ちですが、血というか)私のルーツが、
芭蕉さんと同じ三重県伊賀なので、おっ!となる。中には 
入らずでしたが、入場無料のようです。         





胸突坂を登るとすぐに永青文庫美術館が。建物の中は撮影禁止だったのですが、先日
外から見た時に感じたように、建物自体に迫力のような、人格?気配のようなものを
感じて、平日の夕方、他にお客さんが一人しかいない状態で見るのは少しドキドキ。
ヒトサマのお宅を勝手に探検しているかのような、あるいはこの建物という、一つの
イキモノの体内に入るかのような感覚で、失礼しまーす、と身を固くして作品鑑賞。



たとえ手のひらに乗るほどの小さな仏像でも、下から仰ぎ見るように作られて
いるのでは、と感じる。「手、長っ!」と帳面にメモしてありました。視覚的
効果として、なのか、何か謂れがあるのかと調べてみると、正立手摩膝相と 
いって手が長い=遠くまで手が届く(遠い人にも、慈悲?救いの手?が届け 
られる)ということらしい。                      



永青文庫の過去の展覧会の図録を購入。良寛!結構前のブログにも書いた、私の
好きな「戒語」の実物(手書き文字のもの)も、小さな写真が載っていて心が
踊る。梵字か?と思うような筆跡で、多分「りょうかん」と書いてあるのを 
真似して筆ペンで書いてみたりして。彼の文字はフワッと空気を含んでいる 
ようで、とても好きです。                       

*追記:書をする人に見てもらったら、ひらがなで
「りょうかん」ではなく漢字で「良寛」でした!



前に来た時は日が落ちた後でしたが、白い壁に枝の影も素敵でした。





近くの東京カテドラルにも立ち寄りました。丹下健三の設計によるモダンな大聖堂。
来たのは何度目か。クリスチャンじゃないけれど、しばし祈る。宗教かんけいなく、
祈るとは心情の整理なのかもと思う。目を閉じてアレコレ、(心の中で)ぶつぶつ 
いってたら心なしか、いつも、ここに来ると閉じた目の裏に浮かんでくる(なんて 
ことは滅多にないのですが)水の風景が浮かんできて、そのあと御賽銭的な寄付を 
入れると頂ける、くるくる巻いた紙に聖書の一節が書かれている、御神籤ちっくな 
ものの一言が、水関連で、おっ!となる。                   


乾いている人は誰でも、私のところへ来て飲みなさい。
私を信じるものは、聖書に書いてある通り、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。 
ヨハネ福音書7章37〜38節

Let anyone who thirsts come to me and drink.
Whoever believes in me, as scripture says: Rivers of living water will flow from within him
(John 7, 37-38)




胸突坂を登って、坂の上の(というか山の上、というような
高低差があるのですが)永青文庫に寄って、カテドラルへ、
その後、また坂の下に下るように椿山荘(ホテル)の庭園を
散策。紅梅が咲き始めていました。春近し。       



川沿いの桜の木…は未だ春めいていなかったの
だけれども、金属で作られた柵に枝をもたげた
ようすが、本当は固いはずなのに:ふくよかな
女性の二の腕のように「むにゅっ」っと柔らか
そうに見えて面白かったなぁ、と思い出して 
図解してみました。









2013/05/08

良寛「戒語」








掃除中に出てきた。口の早き人から謙遜なんだか傲慢なんだか分からぬ便りあり、 
嫌な気分になりつつあった今日。…に読むべき・読みたかった言葉だ。嫌な人と  
会ったら反面教師と思おう。あ、原文は良寛さんの言葉らしい。書き写したのは私。
いつ書いたのか、全然おぼえていませんが、数年前の私。書道は習ったことがない 
のですが、時々無性に文字が書きたくなるのです。つづきは、こんなふう:    









アレコレ、そうそう!ほんとうに!とか、ああ、これは耳が痛い。という     
ことば、かり。私が書き写したのはここまで。 → 全文は、こちらで読めます  

*と、書きましたが、どうやらこれは私が気になったところを部分的に   
書きだした、あるいはお手本にした原文が端折ったものだったようです。
                           5/14追記




*5/14追記*




中身も少なくなってきてたんだけれど、注ぎ足し注ぎ足しして使っていたら容器もだいぶ
年季が入ってきたので新しい墨汁を手に入れる。フタの黄色が眩しい。筆も、手に入れた
大椿」を初めて使う。半紙をタテに半分に切って、全文を書き写していく。途中で止めよう
か、と思うほどに、へこたれそうになるくらい長い。こういう物言い、ああいう物言いは
いけないよ、と戒める言葉が続くと、人生の中で自分がやってしまった失態や、された事
色々思い出す。半分に切った細長い半紙を10枚つかったあたりで、やっと終盤。    




なんだか哲学的な〆だった。愛想がないのは、むっつり黙っていることのように  
思いがちだけれど、言葉が過ぎるのは愛想なしである、と。〆の言葉だけで語れない
内容だけれど。そして、果たして終わるんだろうか?と思える長い文章を書き写して
いて気づいたのは、書は切り絵とちょっと似ている。やり直しがきかないことや、 
緊張して作ってると格好よくしようとしてるのが文字(表現されたもの)で、すぐに
伝わってしまう・バレる。あるていど、ほわっと力が抜けて、慣れてきたころに、 
自分も「あ、いいな」と思えるもの(切り絵や、隅で書いた文字)が出てくる。  
そして集中力。音楽については、違うかも。文字は、言葉だからBGMとして    
歌詞が入ったものは、聴きたくならない。無音でもいいくらい。西洋の      
古典音楽・ピアノ曲を聞きながら、東洋の詩人の言葉を書く夜でした。      







空からきた魚 (集英社文庫 ひ 27-2) 

書で思い出しましたが、アーサー・ビナードさんの「空からきた魚」 
(集英社文庫)の題字は、唯一、私が手書き文字で題字を担当した本です。
後書きに私の名前を発見して、きゃっ(♡)となった想い出が。