2017/10/24

音楽を聴きながらの読書、文字を"食べる"と、文字が出る?





10/24:青木隼人さんの音楽を聞きに、自由学園明日館へ。そういえば、
多分初めて明日館に入ったのは青木隼人さんもメンバーの(というか
二人組の一人というか)ラジオゾンデのコンサートだったかも!と、
久しぶりに思い出す。あれ、いつだったかなあ。エリック・サティの
言うところの"家具の音楽"のように、こう、シーンと静まり返って 
潔癖に無菌状態で聴かなくてもいい感じがあって(実際、明日館の 
裏手でテレビか何かの撮影をしていて、機材をしまう音、スタッフの
声などがたまに聞こえたりした)、前の日に仕事ファイルの整理を 
していて、やっと中身を読み始められた(ごめんなさい筑摩書房の 
担当編集者さん!)・私が装幀画?切り文字を作った文庫を読み進め
ていました。青木さんに、演奏中ずっと本読んでたと終演後に話すと
「ご自由に過ごしていただければ」というようなことを、さらり。  




ちなみに、先述のサティは、自分のコンサートに来た人たちが演奏を聴くために
おしゃべりをやめたことに激怒したという伝説があります…。(wikiに詳細)。



読み進めていた(で、表紙の文字を私が制作した…)本の内容が、  
私の興味のある言語(言語学?外国語を学ぶこと)についてだったのと、
耳から入ってくる生演奏の微かな"旅の人"感(ツアーとかでしょっちゅう
旅をしてるイメージ、青木さん)。よく合っていた。コンサート終盤、 
日が傾いて、椅子を数センチ前に持って行かないと文字を読める明るさに
ならなくなって、面白かった。それだけの時間が、静かに過ぎてく感じ。







購入した新しいアルバムのタイトル「小さな歌」や、
曲の間に話してらした小さなものについての話と、 
小さなものについての話を青木さんがしていらして、


その話をしている、まさにその時にココを読んでましたっ!っていう
偶然ではないけれど(興味深く読めて、下の写真くらい、するすると
読み進めててしまったので覚えてません)、本の中にも「枕草子」の
一節「小さきものはみなうつくし」が引用されてたりして、何となく
今回のコンサートと、読書内容が響きあう。(ちなみに私の初個展
題名は「小さなかけら」です。紙「片」、かけら、のイメージと、 
「傑作」を「マスターピース」というように、「タイニーピィシーズ」
という英題をつけて…あ、話が逸れました)。         



読書、スケッチ、読書。ギターを弓で弾くのを初めて聴いた。
わあわあと、お喋り(数日前の、女友達たちとの夕食しかり)
のするも静かな一人の時間も入力だな、と思う。ここのとこ、
モヤモヤっとすることがあり、少し一息ついて、人に会ったり
本を読んだり、ちょこっと勉強モードです。気づいたのは、 
活字をたくさん読んでいると、例えばこういう写真を撮った時
(というか鍵アカウントのインスタグラムに)メモがてら、 
キャプションとして文字を打ち込むときも普段よりも文字数が
多いということ。絵を見ている時は、感じるものも言葉でなく
確固たるもの、というよりもボワっとしているのに対して、 
入力が活字だと、出るもの(出力、表現したくなるもの)も 
言葉が多めになるんだな!と。キタナい例えですけれど、美術
鑑賞なり、読書なり、美味しいものを食べるなり、感性を  
刺激されるものを「食べる」と例えるならば、それをきちんと
消化して、血肉に変えて、自分の表現に生かすことができる。
作品を排泄物に例えるのはあれですが(でも確か、Coccoも、
そんなこと言ってたな?)、表現者として表層的なモノマネ 
ばっかりする人はその、食べたものが自分のものにされて  
いない状態、消化不良で出て来て(出して)しまっているから
「モノマネ」だとバレるんです。それで、ついこないだ仕事の 
ファイルを整理している時に見つけた10年くらい前の自分の 
文章にも書いてあったのですが(下の写真参照→ 元の記事)、




例えば「文学の人」はきっと「文学」だけから学ぶ・吸収するのではない。ということは
常々思っていたのですが、「食べ物」が文字媒体ばかりだと"出るもの"も文字が多め
(普段の倍くらい?)になるんだ!と、体と同じなのねーと友人と話しながら
笑ってしまうような、ちょっとした発見でした。










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